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カロリー計算なんてどうでも良い!

 カロリー計算なんてどうでも良い!


 思い返せば私の自炊生活は10年にもなりました。洛南高校陸上競技部を卒業し、実業団からも大学からも声がかからず、失意の想いを抱えて京都教育大学に入学した私は、失意の想いを抱えながらも、光を見出していました。


 それは高校とは違い、4年間みっちりと自分の体を使って色々な実験が出来るということです。高校3年間は恩師の中島道雄先生からトレーニングプログラムを頂いていました。中島先生には様々なことを教えて頂き、本当に感謝してもしきれないのですが、一点だけ不満があったとすれば、練習内容でした。


 というよりも、教え方といっても良いかもしれません。中島先生は「どういう練習をするかは関係ない。取り組む姿勢の問題や。毎年インターハイチャンピオンが出るけど、皆違う練習してるやろ?どういう練習してるかは関係ないんや」と常々おっしゃっていました。


 しかし、洛南高校陸上競技部で2つ上から2つ下まで合計5学年観察してきましたが、必ずしも取り組む姿勢と競技結果は一致していませんでした。何よりも、私自身「これだけ一生懸命やってインターハイすらいけないのはおかしいだろ」と思っていました。インターハイに行くどころか、3年生になるまではトラックレースでは補欠でした。


 誤解のないように述べておきますが、中島先生も練習に対しては試行錯誤をされており、何パターンもの練習を試されていました。その中で、全国高校駅伝で入賞できる可能性があり、なおかつ高校卒業後に大きく伸びるような練習のさじ加減を会得されたようです。


 ですので、しばしば「インターハイチャンピオンを育てるとか、全国高校駅伝で入賞させようと思えば育てられる。でも、それよりも大事なのは高校を卒業してから人間として大きく成長すること」とおっしゃっていました。


 詳論には触れませんが、促成栽培と失敗も成功も経験して、自分の頭で考えながら成長するというのはまた違うのでしょう。


 また中島先生は「こういう練習しないと強くなれない」というような固定観念や本でかじってきただけのような姑息な考え方を嫌いました。1つの考え方にとらわれるのではなく、自分で色々と試してみて、失敗も自分の力で乗り越えて、人としても成長してほしいという大きな心の指導者でした。


 実際に、高校を卒業してから、強くなる選手の率は群を抜いて高かったですし、中島先生の教えを受け継いだ選手たちは指導者やマネージャーになる率も非常に高かったです。中島先生の教えの賜物でしょう。


 しかし、一方で私自身も高校時代は思うような結果を残せませんでしたし(中島先生の予言通り、大学入学以後伸びましたが)、また私の場合は一応京都府高校駅伝も3年連続区間賞、全国高校駅伝も3年連続で走らせて頂いたということもあり、もう1つの見方も手に入れました。


 それは「なぜあの選手ではなく自分がメンバーには入れたのだろうか?」というものです。確かに、私は力がなかった訳ではありません。特に距離的には高校生の誰よりも走りこんだという自負もあり、スピードがない割には長い距離、起伏の激しいコース、強風、単独走、様々な悪条件でも卒なく走るので、駅伝では使い勝手が良かった選手ではあります。


 しかし、それを割引いても私よりも力のある選手は他にもいました。持っている身体能力ではとてもじゃないですが、かなわないんです。インターハイで入賞するような選手はたいてい身体能力が高く、スプリントも速い、中距離も速い、メディシンボールを投げても遠くまで飛ぶ、縄跳びやバウンディング、動きづくりをしても明らかに他の選手よりも飛べるし、動きも綺麗という選手が多いです。


 しかし、逆に身体能力が高いから成功するかというとそうとも限りません。先輩にも後輩にも、私よりもはるかに身体能力が高い選手はいました。スピードもあるし、距離を踏んでも弱くはありません。3000m2本をやっても、ずーっと1キロ3分で押していって最後の1000mを2分46秒で走るような選手です。


 練習終わりに300m2本をやっても私はせいぜい46秒くらいでしか走れないのに、普通に42秒くらいで走ります。最も速かった先輩はジャージで39秒で走るほどのスプリント能力を持っていました。後輩にも似たようなのがいました。そして、重ねて書きますが、距離走をやっても弱くはないんです。



でも、駅伝では私が選ばれた。何故か?



 ついでに書いておくと、弊社副社長の深澤も持ってる力の半分も出し切れませんでした。唯一の救いは、最後の京都府高校駅伝5区で区間賞を獲得したことです。しかし、この程度の成績は彼にとっては当たり前の記録です。


 何故、もっと速く結果を出すことが出来なかったのか?