あなたは、佐藤 煉(れん)という少年を覚えているだろうか?
以前より私のメルマガを読んでくださっているなら、記憶に新しいのではないだろうか。むしろ「R君」と呼ぶ方が馴染みがあるかもしれない。何を隠そう、彼は私が初めて本格的にジュニアコーチングをするきっかけとなった少年であり、3年間陸上競技の指導に当たっていた才能ある若き選手だ。
煉君が中学生の頃、掲げていた目標は「全国大会(通称=全中)出場」であった。私が彼と出会ったのは、まだ彼が小学校6年生の終わりがけの時。初めて彼の走りを見た私は、衝撃を受けた。現在、陸上男子3000mSCで日本を背負って立つ若きエース・三浦龍司の中学時代の走りを彷彿とさせる体の使い方のうまさ、天性の動きの柔らかさ、バネ、惚れ惚れとする接地から足離れ・・
才能というのはこういうことを言うのだと思った。ある人にはあって、ない人にはない。煉君にはそれがあると一目見て思った。この子を3年かけてコーチさせてもらえるなら、最低でも全国大会に連れて行くくらいはできなければ、コーチとしての己を恥じるべきであるとさえ思ったことをよく覚えている。
それから実際に指導にあたり、煉君は順調にその走力を伸ばしていった。2年生の時には800mで滋賀県チャンピオンに輝き、3年生の春先には1ヶ月ほどの故障があったものの、二型池上機も使いながらトレーニングの疲労からも順調に回復して、最後の夏の大会を迎える直前には、全国大会出場を十分に狙える状態に仕上がってきていた。
陸上を知らない人のために、中学生の陸上競技の全国大会出場の方式を簡単にお伝えすると、中学陸上においては全国大会に出場するために「参加標準記録」なるものが各種目ごとに設定されていて、指定の大会でその記録を突破することで全国大会への出場が認められることになる。例えば男子の中長距離種目であれば、800mなら2分00秒50、1500mなら4分8秒50、3000mなら8分57秒00を、指定の大会で突破したもののみに全国大会の出場権が与えられるというわけである。その指定の大会というのも、7月の中旬〜下旬に行われるたった二つのレースしかない。つまり、文字通り7月に開催されるたった2つのレースのいずれかで、これまで何百、何千人もが跳ね返されてきた困難な記録を突破する必要があるのだ。
その夏の指定の大会の一つ、通信陸上という大会が4日後に迫ったある日、私は煉くんと共に競技場へ足を運び、最終調整の練習を行った。この日のメニューは600m+200mを100mjogで繋ぐというもの。通常であれば、4日前時点でのこの合計タイムが、レース当日に大体そのまま結果のタイムになるという、いわば800mの調整の定番練習である。
彼はこの練習で600mは1分28秒、200mは27秒で走り、合計タイムは1分55秒となった。つまりうまくいけば1分55秒から、レース展開がうまくいかなくても2分は切れるだろうという目処が立った。全国大会の参加標準記録である2'00"50はほぼ間違いなく切れるだろうと私は確信した。3年間、私を信じてついてきてくれた彼を全国大会へと連れて行ける可能性が非常に高くなったことを確信し、私は半分だけ安心した。
そうして迎えた勝負の日。通信陸上での800mで、私は衝撃を受けることになる。煉君が全国大会の標準記録を切れなかったのではない。むしろ彼はしっかりとその記録を打ち破り、全国への切符を手にした。しかし、思いもしない、大きな衝撃がその日起こったのだ。
当時まだ2年生ながら、前年の県内チャンピオンである煉君を打ち破った少年がいたのだ。
その少年の名は「石原 向規(こうき)」。彼は2年生ながら煉君に先着し、全国大会出場を決めたのだ。正直、その時はまだ彼の凄さを見抜いてはいなかった。なぜなら、煉君を見ることで必死で、彼の走りをじっくりを見ることはできなかったからである。
しかし私は再度この向規君に衝撃を受けることになる。それは、通信大会から1ヶ月後に行われた全国大会だった。この全国大会でも、奇遇にも800mの予選レースで煉君と向規君は同じ組に入っていた。つまり同じレースを走ったのだ。そして私はそこで、向規君が2年生ながら800mで1分57秒を記録し、決勝まであと少しのところに迫ったのだ(ちなみに、出場選手中の2年生の中では2番目)。
私は煉君を3年間コーチして、彼にも相当な才能を感じていたが、向規君に関してはそれを2年生の時点で超えてくるという異質さを感じた。ただ、当然ながらこの時点では彼のことをよく知らなかったし、また、コーチングに関しては煉君を教え切ったら終わるつもりだったので、正直なところこの時点では「またすごいのが現れたな」というくらいにしか思っていなかった。
翌年の4月、衝撃は再び訪れる
その後私は、煉君を無事に中学卒業まで送り出し、私もここからはランナーとしてより高みを目指すべく集中することにしようと考えていた。正直、今年の3月時点まではもうコーチをやるつもりはなかった。
しかし、3月に池上と共にとある元実業団監督をウェルビーイングに引き抜くべく、大雪の中約3時間に渡って河川敷を歩きながら工作活動をしたことがきっかけとなり、私はまだコーチとしての活動を継続することになった。詳細はまだ話すことができないが、端的に言えば滋賀県を拠点として、ウチが中学陸上の強化に乗り出そうという話になったのだ。
率直に言って、滋賀県の中学陸上界は環境が整っていない。例えば私の故郷である京都では、今ではいくつかの強豪クラブチームが存在していたり、また中学校の部活の顧問の先生方も陸上競技、とりわけ長距離種目の専門知識を豊富に有している方が多い。私が今住んでいる兵庫県も同様である。要するに、本気で陸上をやりたい中学生にとって、選択肢が多いのである。
一方、滋賀県においてはそれがない。申し訳ないが、中学校の部活の顧問の先生方で専門的な指導ができている方はほとんどいないと言ってもいいだろう。これまで預かった色々な子たちから学校での部活のメニューを聞くと、いつもゲンナリする。それくらい全く理に適った練習ができているところが少ないのだ。
ここ最近でこそ、滋賀県の中学生のトップのレベルは上がってきているが、正直全体のレベルは高くない。これは、私自身が中学生の頃もそうだったし、また今引き抜こうとしている元実業団監督の方(滋賀県の方である)が中学生の頃もそうだったようだ。全体のレベルが低いのは、やはり専門性を持って教えられる人が少ないということが多いに関係していることは間違いない。
加えて、最近は部活動に関しても先生方の働き方改革の問題で、十分な練習時間が確保できないケースも増えている。学校の部活だけでは満足な練習ができないケースが増えているのだ。つまり、もっと上を目指して頑張りたいのに、その環境がない、という子が少なからずいるのが滋賀県の現状なのである。
これはかつて、中学生の頃の私自身が抱えていた悩みともリンクする。なぜなら、私が通っていた中学校には、そもそも陸上部がなかったからだ。陸上競技を本格的にやりたいのに、陸上部がない。実際その影響で中学2年生まではほぼ完全に独学と、あとは週末に民間の陸上クラブに行って練習をしていたが、ここのコーチも正直素人に毛が生えた程度のものであり、大した練習をしていたわけではなかった。
そんな環境でやっていた私は、専門的なコーチに教えてもらえる環境を渇望していた。とにかく頑張れる環境を渇望していたのだ。そんな経験があるからこそ、滋賀県のこの状況を知り、さらにその強化に乗り出すという話になり、メインコーチとして私に白羽の矢が立った時、私は二つ返事でやると答えた。兵庫から滋賀まで毎週通うことになり、毎月自腹で赤字が出る活動にはなることはわかっていたが、それでもやる意義があると思ったからだ。
そうして私は滋賀県の野洲川競技場という場所を拠点とした練習会を立ち上げた。早速FacebookとInstagramに広告をかけ、複数の中学生の親御様から問い合わせをいただいた。その中に、いたのだ。昨年、私の教え子を当時2年生ながら打ち破った、あの石原向規が。
早速4月の頭から練習会は始まり、参加してくれた複数の中学生と、記録を伸ばしたい大人のランナーの方と練習が始まった。陸上経験がなく、これから頑張って速くなりたい子から、すでにある程度成績を出していて、さらに上のステップへ行きたい子まで広く集まってくれた。
私は参加してくれた中学生全員と挨拶を交わし、話をした。向規君とももちろん、話をした。そこで彼から、2月から3月にかけて1ヶ月ほど剥離骨折で走れなかったということと、普段の練習が全く単調であり、変化がないということを聞いた。特に、練習については衝撃だった。こんな練習で、そんなタイムで走れるのか?と思わざるを得ないような内容だったからだ。ピーキングなんて概念はあったもんじゃない。年がら年中、ペース走と200m×5だけで記録を伸ばしてきたというのだ。
もちろん彼の主戦場は800mである。となれば、もう少し専門的なトレーニングは必要になるし、また基礎構築期から特異期を経てレースに向かうというのは、これは800mであろうがマラソンであろうが共通事項だ。つまり、そう言ったものを全く無視してこれまで結果を出してきたというのだ。これから、どれだけの伸び代があるのだと、私は衝撃を受けたし、今年の夏は本気で全国大会優勝も狙える器だと思った。
最高で、最悪のレース
野洲川での練習会が発足し、向規君も毎週のように通ってくれて順調にトレーニングを消化していった。3月まで剥離骨折をしていたこともあるので、4月はあまり出力を上げずに、体の使い方を確認するような練習メニューを組んで徐々に慣らし運転からスタートさせていった。
まだまだ特異的なトレーニングはできていなかったものの、すでに昨年の自己ベストは更新できそうな状態になっていることを私は見ていて実感した。実際、4月後半からはレースに出場するたびに記録を上げていって、私の予想通りの記録の曲線で進んで行った。
そして5月に入り、800mとはいえど最終的には持久力が必要になるため、1500m〜3000mで通用する力をつけるためのトレーニングを重点的に行うようにしていった。彼はその練習も順調にこなし、800mのレースペースの練習はたまに入れる程度であったが、それでも動きの感覚だけ掴ませるだけでスッと順応していった。
そんな中迎えた春季大会。これは勝負レースである夏季大会の前哨戦に当たる試合で、野球で言えば選抜高校野球みたいなものである。この春季大会で、向規君は2年時の自己ベストを更新し、800mを1分57秒で走破した。
私の見立てでは、その時点での向規君の状態はまだ8割5分程度であった。これは予想通りであり、むしろ春季大会で9割〜10割に到達してしまっていたら、夏季大会は下降調子で臨むことになるので、しめしめという気持ちでレースを見ていた。6月からは徐々に800mに向けた特異的練習にシフトしていき、7月、8月と調子を上げていって、8月下旬の全国大会で、全国の表彰台の頂点に、、と思っていた。
しかし、事件は起こった。
春季大会が終わったあと、自宅に帰った私は何気なくInstagramを開いた。すると彼のストーリーズが上がっていた。そこにはこう書かれていたのである。
「最高で最悪のレース。駅伝まで我慢」
私は、困惑した。駅伝まで我慢?どういうことだ、と。その時はそこまで深く捉えていなかったのだが、翌日彼のお母様より私に連絡が入った。そこで、事実は発覚した。
この春季大会を機に、彼は大きな故障をしてしまったのだ。3月に発症していた剥離骨折が、反対足に起こってしまった。春季大会での800mレースと、その後の100mのリレーのレース後に起きてしまったのだ。
お母様がおっしゃるには、全治3ヶ月であり、医者からは夏の大会は諦めるように言われたとのこと。私は一刻も早く向規君と直接話がしたかった。どういう状態なのかを知り、本当に3ヶ月も休む必要があるのかどうか、また、夏は諦めるのかどうか、本人の気持ちも直接話して知りたいと思った。
その1週間後、野洲川での練習会の前に私は向規君とそのご家族と直接会って話をした。思っていたよりも表情は明るく、元気そうである。よかった。最後の大会を控えたこの夏前の時期に、松葉杖をつくような故障をした時の焦燥感や不安は計り知れない。私がその立場だったら、間違いなくこの世の終わりのような顔になるだろうと思い、心配していたのだが、彼の表情は明るかった。
そして彼は言った。
「夏の大会、走りたいです」
これを聞けただけでも、この日私は練習会前に練習場に足を運んでよかったと思った。医師の言葉は重い。医師から全治3ヶ月だと言われれば、それにすんなり従ってしまう人は少なくない。実際には、医師の言うことはもちろん参考にしても良いが、100%鵜呑みにして聞く必要はない。なぜなら、医師はランナーではないからである。医学的な見解と、実際に体に起こること、そして長距離ランナー目線で見た時に必要なアプローチはまた違うのである。
だから私は、本当に3ヶ月も必要なことはないだろうと疑っていた。夏にもなんとか間に合わせることができるのではないかと思っていた。しかし、本人がそう思っていないのであれば、どうしようもない。私は、そこの意思を確認したかったのである。
彼が夏に間に合わせたいという意志を確認して、私は彼にLLLTを試してみてほしいと言った。LLLTというのは赤外線の光線が出る機械であり、実際にLLLTに関する多くの研究結果では、骨の形成に必要な骨芽細胞の生成が有意に早くなったとするものもいくつもある。今回の故障は剥離骨折であり、LLLTは有効であると考えた。私は彼に二型池上機を貸し出し、とにかく暇さえあればたくさん当てまくるようにと指示をした。これが彼の復帰にとってどう出るかは、これからの様子を楽しみに観察していきたい。
そして、医師の指導の元、リハビリを行い、またパーソナルトレーニングなど、多くの力を借りながら今は快方に向かっていると連絡を受けた。とにかく、6月の間は焦らずに、まずは今月いっぱいかけてなんとか走り出せるところまで戻れば、そこからは彼の元の力を考えるとそう難しい話ではないはずだ。
走っても良い故障と、そうではない故障
長距離走やマラソンで発生する故障には、走っても良い故障とそうではない故障がある。走っても良い故障というのは、早い話が筋肉のハリや凝りからくる慢性的な故障である。こういった故障は、トレーニングによって酷使した筋肉の中に強いコリやハリができて、それによって血流が悪くなり、ある部分が局所貧血を起こすことによって酸素の運搬がなされなくなって、最終的に炎症が起きて痛みが発生するというものである。
こういう場合の故障においては、とにかく炎症反応そのものを止めると同時に、痛みが出ている箇所や、その周りの筋肉群をほぐしていくことが重要である。特に、周りの筋肉を根気よく触ることは大事である。というのも、慢性的に痛みが出ている場合、その周りの筋肉のどこかに強いはりやこりがある場合がほとんどであり、そこをほぐし切ることで大体の場合は痛みがほぐれていくからだ。
逆に言えば、筋肉がほぐれることが重要なので、必ずしも走ることをやめるのが良い案とは言えない。軽く走って筋肉がほぐれるのであれば、その方が治りが早くなることもある。また、試しに走ってみて、走ってみた結果走り出す前と比べて痛みが強くなっていないのであれば、走りながらでも治せるケースが非常に多い。
むしろ、こうした故障の場合、低度で慢性的な炎症反応が起こっているので、中枢神経が痛みのある箇所を「異常事態」だと認識しないため、免疫細胞が送られず、自然治癒が進まない傾向にある。よって、ただ休むだけでは治らないのである。
対して、走ってはいけない故障というのは骨の損傷など、物理的に修復が待たれる故障である。こういう故障は基本は安静にすべきであり、医師の言うことを聞いた方がいいケースでもあるだろう。骨の場合は、やはり骨がくっついたり、新しく仮骨が形成されるまでの間、ランニングによる接地の衝撃は与えない方が治りが早くなるのは間違いない。
ただ、こういった故障の場合は炎症の度合いも大きく、自然治癒も積極的に進むため、休むことで治癒が促進されやすい。LLLTを使うことで炎症を抑え、骨芽細胞の生成を助けることもしやすいだろう。
とにかく、向規君は今は我慢の時期である。全く走れないどころか、運動もまともにできない状態なので、無理に夏のことを考えさせるのも酷であるが、本人が諦めないという意志を持っている限りは、精神的にも身体的にも早く復帰できるように注意深くサポートしていきたい。
そして、野洲川の練習会には現在合計7名の中学生が在籍している。預かっている選手は皆、走力もキャパも異なる。一人一人の特徴を見た上でトレーニングを熟考し、アプローチしていく必要がある。向規君のように全国で戦うことを目指す子と、陸上を始めたての子では当然アプローチは違う。その一人一人の成長に対して、丁寧にコミットしていくことが引き続き重要になる。
特に、2、3年生に関してはいよいよ夏の大会に向けて佳境の段階に入ってくる。県内でも有数の力を持った選手が複数在籍しており、彼ら、彼女らの才能を夏にしっかりと輝かせることが、私の喫緊のミッションである。
そして、陸上のキャリアをスタートさせたばかりで、ランナーとしてはまだ産声を上げたばかりの子も在籍している。彼ら、彼女らに関しては、とにかくまずは基礎体力。一年目はとにかく一般性の高いトレーニングをどんどん積ませて、体をランナー仕様に仕上げていき、その後得意種目を見つけていきながら、徐々に特異的に力を発揮できるように指導していきたい。
そして、中学生のコーチから私自身もまた、学ぶことが非常に多くあることは明白であり、そこから得た知識と経験を中学生の指導はもちろん、これからのメルマガやYouTubeでの情報発信に繋げていき、市民ランナーの皆様の走力向上のためにも恩恵をもたらすことができるように精一杯精進してまいりたい。
野洲川のメンバーの今後の進展については、このように不定期で発信していく予定である。どうか、暖かく見守っていただけると幸いです。
ウェルビーイング株式会社副社長
野洲川練習会メインコーチ
深澤哲也
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