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夏場のトレーニング論

 夏場のトレーニング、これは多くのランナーにとってとても難しいものだと思います。実は夏場のトレーニングをどのように組むのかというテーマは市民ランナー特有のものです。何故なら、高校駅伝強豪校、大学駅伝強豪校、実業団チームはすべからく夏場は準高地や北海道に行って合宿をするからです。ではなぜ、これらの学校は金をかけてまで準高地や北海道で合宿をするのでしょうか?それはそうする必要があるからです。


 では、何故そうする必要があるのかというと、日本の場合、ごく平均的な、標高ほぼゼロメートルで、人間がたくさん住んでいるようなところでは暑すぎて疲労を残さずに充分な質と量の練習をこなすことが不可能だからです。これは生理学的に無理なので、気合を入れればなんとかなると言ってる人は、水を飲まずに練習した方が体が動くとか、竹やりでB29に勝てると言っているようなものです。


 ではなぜ無理なのかということですが、人の中核体温はおよそ37度前後に保たれていないといけないといけないからです。これは我々が生きるということを考えてもらうとより分かりやすいと思います。生きるということは、体の中で様々な化学反応を起こしてエネルギーを生み出し続けるということです。詳しくは解説しませんが、簡単に説明すると無気的リン酸系、無気的解糖系、有気的解糖系、有気的脂肪分解系の4つの代謝回路を使い、アデノシン二リン酸をアデノシン三リン酸に再合成して、エネルギーを生み出しています。再合成する必要があるということは、そもそもエネルギーを生み出す時にアデノシン三リン酸をリン酸とアデノシン二リン酸に分解しているということです。そして、そもそもなんのエネルギーを生み出しているかというと、筋収縮と体温維持です。


 というよりは、筋収縮の際のエネルギーの4分の3は熱エネルギーに変換されるという非常に効率の悪いエネルギー産生を人間の体はしています。筋収縮と書くと何かスポーツをしているかのような印象を受けますが、別にスポーツという訳ではなく、普通に呼吸をしたり、心臓をしたり、肺を動かしたり、姿勢を維持したり、座ったり、歩いたり、パソコンのキーボードを売ったり、ご飯を食べたり、消化したり、セックスをしたり、その全てにおいて筋収縮は生じています。


 そして、その筋収縮を含む全ての生化学的反応が生じる際に、条件があって、ある程度の範囲内の温度とPHという二つの条件が必要になるのです。ですから、ヒートアップした筋肉に水をかけて冷やすと再び体が動きやすくなるのは、この温度が最適な温度に近づくためです。逆に、冬場の冷えた筋肉ではしっかりと服を着こんでウォーミングアップをしないと、体が動きません。これは逆に温度が最適温よりも低いので、温めて最適温に近づけると体が動きやすくなるのです。PHに関して言えば、最も分かりやすい例で言えば、中距離や5000mなどの乳酸がガンガン蓄積する競技におけるペースダウンやペースダウンしないまでも、あの脚が重くなっていって、上半身が固まるあの現象を思い出してください。マラソンやハーフマラソンとはまた違う苦しさですよね。あの苦しさは蓄積する乳酸によって血液が酸化し(PH値が下がり)、最適PH値よりも下がるため、筋収縮がスムーズに行われなくなるのです。


 ちなみにですが、乳酸は悪者ではなく、ペースダウンの原因にならないという理論が2009年くらいから広まり、今でもしぶとく生き残っています。この説が広まったのは八田秀雄という人が書いた『乳酸を使いこなすランニング』という本の中で、「乳酸は悪者ではない」ということを書いたからです。この本を読んだとき、高校生ながらに怒りで体が震えましたね。


 先ず第一に、乳酸がピルビン酸に再変換されエネルギーとして使われるということは、運動生理学の世界では何十年も前から常識で、八田さんが言いだしたことでもなければ、2009年当時でも最新の研究でもなんでもありません。それは事実ですが、運動強度が上がると、処理できる能力をはるかに上回る乳酸が産生されるので、乳酸が蓄積されていきます。そして、先述したように乳酸が蓄積すると血液PH値が下がり、最適PHから遠のいていくので生化学的反応が妨げられるようになります。生化学的反応が妨げられるということは、すなわち代謝が阻害されるということであり、ということはエネルギーの産生速度が落ちるということであり、ということはペースダウンを余儀なくされるということです。


 八田さんが何故ああいう本を書いたのか分かりませんが、好意的に解釈すれば、八田さん自身がそういった事情を理解していないのに本を書いてしまったということであり、普通に解釈すれば、売名行為の為にセンセーショナルな書き方をした本にマスメディアも飛びついて瞬く間に広がったということでしょう。高校生ながら、学問という聖域が汚されたように感じました。素人の方が言うのは良いのですが、曲がりなりにも教授という肩書の人がそう言う本を出版することは許せませんでした。


 話を最適PHから最適温度に戻しましょう。乳酸が蓄積して、脚は重く上半身も固まり、腕振りも苦しいあの感じの温度版が、最適温度を著しく超える、もしくは下回った状態です。では、最適温度を上回るのと下回るのとどちらが大変なのかということですが、少なくとも持久系スポーツにおいては、温度を上回る方がダメージが大きいです。先ず第一に、中核体温の話をすると、人間の中核体温は大体日本人の場合は、36度5分です。ドイツ人などはもう少し高いですが、それでもせいぜい37度程度です。もし、これが40度を超えてくると、死の危険が高くなります。しかも、病気で熱が上がっているのではなく体温調節機能がもはや働かなくなった、いわゆる熱中症の場合は、かなり危険です。許容範囲がせいぜい4度程度しかありません。


 逆に、体温を下げる方は7度くらいまでは大丈夫です。要するに、30度を切るくらいまでは生命の危険という意味では、何とかなります。なので、若干ではありますが、上よりも下の方が許容範囲が広いのです。ただ、これはケースバイケースでもありますし、必ずしも大きな差とは言えないでしょう。ただ、圧倒的に違うのは、中核体温を下げるよりも、上げる方がはるかに簡単だということです。


 だって、中核体温を上げる方は走り続ければ自動的に体温が上がっていくじゃないですか。そもそもマラソンのように長時間走るスポーツでは、20‐25度という普通に生活するには最も快適な温度でさえも、パフォーマンスの低下の原因になる温度です。マラソンに最も適した温度は5度から10度辺りであり、5000mのような短い距離でさえも記録が出やすいのはこの温度です。


 その理由は先述したとおり、筋収縮の際に生み出されるエネルギーの約4分の3が熱エネルギーとして消えてしまうということ、人間には最も高いパフォーマンスを発揮できる最適温度というのがあり、逆にその範囲を超えてくると代謝もスムーズにいかなくなり、中枢神経も更なる体温上昇を抑えるために、体にペースダウンを命じるからです。


 そして、ここからがさらに重要なことなのですが、単純にあるワークアウトにおいてペースダウンを余儀なくされるだけなら、ペースを落として同じトレーニング内容を組めば良いのです。トレーニング効果としてはそう大きく、変わらないでしょう。ただ、問題は熱疲労と呼ばれる疲労の蓄積が速くなる、もしくは疲労がなかなか回復しない現象です。ただ単に、単一のワークアウトにおけるタイムが遅くなるだけではなく、ペースを落として同じ練習をした時の疲労の回復具合に大きな差が出るのです。